薪能・・・です!!
2012.10.14 00:52|僕が山奥に移住した理由|
ソフトバンクが動いていますね。
いやいや・・・勝負師ですね。
非常にハイリスクな経営をしていることは以前にも取り上げましたが、なかなか面白いですね。
全く守りの姿勢を感じさせないですね。
潰れるかもしれないけれど、巨大な通信会社として発展するかもしれない。
失敗を恐れず・・ですね。
孫正義という人は、人生の有限感というものを自覚しているのでしょう。
「人生の有限感について・・・ 」
話は飛びますが、今度、地元の山城跡で、薪能があります。
これはびっくり、あまりに凄い企画なので、即観覧申し込みをしました。
別に、日本の伝統芸能が好きという訳でありません。
能というのは、過去の遺物ではないのです。
能とは・・・・説明しづらい。
ニーチェが言う所のディオニュソス的芸術そのものです。
私の能との出会いは、非常に変わっています。
ニーチェを読んでいて、そこから至りましたので・・・汗
ニーチェは、芸術を大きく分けて二つに分類しています。
アポロン的芸術とディオニュソス的芸術と・・・
アポロン的・・それは造形芸術です。
ディオニュソス的・・・それは陶酔芸術です。
この解釈は、研究者によって色々されていますが、何と言うか・・・まあ、私とは全然解釈が違います。
ニーチェの言っていることは、特定の芸術作家がどうのとか、特定の芸術がどうの、とかではありません。
もっと根本的なことなのです。
アポロン的とは・・・どういうことなのか?
花に喩えると、造花のようなものです。
造花とは、死に購うことです。
生花は枯れますが、造花は枯れません。
永遠の美という言葉がありますが、美とは、時間を超越したものという概念がそこにあります。
絵画や彫刻など・・・・これは、生の瞬間を永遠化する行為と言えるかもしれません。
これ、結局のところ、死の否定です。
永遠とは死なないこと・・・永遠の美が芸術の究極目標ならば、それは、死の否定です。
それに対して、ディオニュソス的芸術とは陶酔です。
この表現は誤解を招きますが、生の瞬間を感じることです。
生とは流転しているものです。
一瞬足りとも同じことはない、誕生と滅びなのです。
生花と造花を並べて見続ければ、どんなに精巧な造花でも、違いが分かります。
生花は、咲き、枯れる。
人は死を恐れ、永遠に憧れる。
人生が有限であることを忘れる為であるかのように、永遠の美に憧れ、それを具現化しようとする。
人生が有限であること、生と死の繰り返しが生そのものであること・・・これを受け入れるということは、永遠の美という造形ではなく、生の在り方そのものを体感することです。
世阿弥の書に『風姿花伝』というものがあります。
この書との出会いは、衝撃的でした。
能の技法とかを書き留めた書ではないんですね、これ。
まさに、哲学書なのです。
で、この書の中に、有名な「初心忘するべからず」という言葉が出てきます。
これ、今でも私の座右の銘となっています。
この言葉は、現代的な意味では、世阿弥のそれとは違っています。
現代的な意味では、物事を始めた時の心を忘れずに・・・ということになっています。
しかし、世阿弥の意味では、そうではない。
生きるとは、その瞬間瞬間が初心であることを忘れてはならない・・こういうことなのです。
5歳の時は、初めての5歳であり・・・
30歳の時は、初めての30歳であり・・・
60歳の時は、初めての60歳であり・・・
そう、生きるとは、常に始めての経験の連続であり、その時々の花がある・・・こういうことです。
その時々が一度限りの生であり、死もまた一度限り・・・生と死は対立するものではなく、生は死であり、死は生である・・
生きるとは、永遠ではなく、儚く移ろい行くもの・・・
能とは、その生の陶酔を表現しようとしている。
造花と生花に喩えると・・・
花という自然を考えて永遠化しようとした造花(アポロン的芸術作品)を見るのではなく、花という自然の移ろいを感じ、そこに陶酔する。
自然を自分に対峙するものとして考えるのではなく、自然そのものへの同化を感じる。
まあ、ここら辺のことを言葉で表現すると、どう書いてもしっくり来ません。
能とは、自然を感じること・・・だから、薪能でなければならない。
能楽堂のような人工物の中では、その根幹から相反します。
自然の中で、その中で行われるからこその本来なのです。
山城跡で薪能の鑑賞・・・こんな経験をまさか四国の山奥に暮らして出会えるなんて・・・運命を感じました(汗)。
いやいや・・・楽しみです。
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いやいや・・・勝負師ですね。
非常にハイリスクな経営をしていることは以前にも取り上げましたが、なかなか面白いですね。
全く守りの姿勢を感じさせないですね。
潰れるかもしれないけれど、巨大な通信会社として発展するかもしれない。
失敗を恐れず・・ですね。
孫正義という人は、人生の有限感というものを自覚しているのでしょう。
「人生の有限感について・・・ 」
話は飛びますが、今度、地元の山城跡で、薪能があります。
これはびっくり、あまりに凄い企画なので、即観覧申し込みをしました。
別に、日本の伝統芸能が好きという訳でありません。
能というのは、過去の遺物ではないのです。
能とは・・・・説明しづらい。
ニーチェが言う所のディオニュソス的芸術そのものです。
私の能との出会いは、非常に変わっています。
ニーチェを読んでいて、そこから至りましたので・・・汗
ニーチェは、芸術を大きく分けて二つに分類しています。
アポロン的芸術とディオニュソス的芸術と・・・
アポロン的・・それは造形芸術です。
ディオニュソス的・・・それは陶酔芸術です。
この解釈は、研究者によって色々されていますが、何と言うか・・・まあ、私とは全然解釈が違います。
ニーチェの言っていることは、特定の芸術作家がどうのとか、特定の芸術がどうの、とかではありません。
もっと根本的なことなのです。
アポロン的とは・・・どういうことなのか?
花に喩えると、造花のようなものです。
造花とは、死に購うことです。
生花は枯れますが、造花は枯れません。
永遠の美という言葉がありますが、美とは、時間を超越したものという概念がそこにあります。
絵画や彫刻など・・・・これは、生の瞬間を永遠化する行為と言えるかもしれません。
これ、結局のところ、死の否定です。
永遠とは死なないこと・・・永遠の美が芸術の究極目標ならば、それは、死の否定です。
それに対して、ディオニュソス的芸術とは陶酔です。
この表現は誤解を招きますが、生の瞬間を感じることです。
生とは流転しているものです。
一瞬足りとも同じことはない、誕生と滅びなのです。
生花と造花を並べて見続ければ、どんなに精巧な造花でも、違いが分かります。
生花は、咲き、枯れる。
人は死を恐れ、永遠に憧れる。
人生が有限であることを忘れる為であるかのように、永遠の美に憧れ、それを具現化しようとする。
人生が有限であること、生と死の繰り返しが生そのものであること・・・これを受け入れるということは、永遠の美という造形ではなく、生の在り方そのものを体感することです。
世阿弥の書に『風姿花伝』というものがあります。
この書との出会いは、衝撃的でした。
能の技法とかを書き留めた書ではないんですね、これ。
まさに、哲学書なのです。
で、この書の中に、有名な「初心忘するべからず」という言葉が出てきます。
これ、今でも私の座右の銘となっています。
この言葉は、現代的な意味では、世阿弥のそれとは違っています。
現代的な意味では、物事を始めた時の心を忘れずに・・・ということになっています。
しかし、世阿弥の意味では、そうではない。
生きるとは、その瞬間瞬間が初心であることを忘れてはならない・・こういうことなのです。
5歳の時は、初めての5歳であり・・・
30歳の時は、初めての30歳であり・・・
60歳の時は、初めての60歳であり・・・
そう、生きるとは、常に始めての経験の連続であり、その時々の花がある・・・こういうことです。
その時々が一度限りの生であり、死もまた一度限り・・・生と死は対立するものではなく、生は死であり、死は生である・・
生きるとは、永遠ではなく、儚く移ろい行くもの・・・
能とは、その生の陶酔を表現しようとしている。
造花と生花に喩えると・・・
花という自然を考えて永遠化しようとした造花(アポロン的芸術作品)を見るのではなく、花という自然の移ろいを感じ、そこに陶酔する。
自然を自分に対峙するものとして考えるのではなく、自然そのものへの同化を感じる。
まあ、ここら辺のことを言葉で表現すると、どう書いてもしっくり来ません。
能とは、自然を感じること・・・だから、薪能でなければならない。
能楽堂のような人工物の中では、その根幹から相反します。
自然の中で、その中で行われるからこその本来なのです。
山城跡で薪能の鑑賞・・・こんな経験をまさか四国の山奥に暮らして出会えるなんて・・・運命を感じました(汗)。
いやいや・・・楽しみです。
・・・・・・・・今日の徒然でした。

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